フリーダムスタジオ 50年の記録

1976年12月にオープンしたフリーダムスタジオは、今年50周年を迎えます。

当時を知らない現スタッフの手で、この半世紀の歩みを少しずつひも解いてきました。
関係者への取材を重ねる中で、これまで語られてこなかった事実や背景が、次第に輪郭を持ち始めています。

その一つひとつを辿る中で見えてきたのは、本スタジオが日本のポップス音楽史の中で確かな役割を果たしてきたという事実でした。

この50年の歩みを、いま改めて記録し、次の時代へと手渡していきたい——
その思いから、本連載をスタートいたします。

執筆は、日本の音楽シーンを長く見つめてきた音楽ライター・今津甲氏。

フリーダムスタジオの50年を辿るこの試みを、ぜひご覧ください。

第1章 はじまり(2026.04.01 UP)

ゼロから新たなものを作ろう!
初めにあったのはそういう熱量だったと聞いています。

東京都大久保2-16-36。ここに現在の社屋を建てるに際して、うたごえ運動の拠点である音楽センターが専用スタジオを作る、という話もありました。

けれども本格的なレコーディング・スタジオを作り運営していく、というのは高度にプロフェッショナルなスキルが必要です。
だったら独立したレンタル・スタジオを立ち上げるのはどうか?

これまでなかったものを作ってみよう!という高揚感の中で、プロジェクトはスタートしたのです。
創設メンバーの中には、自前でアメリカへスタジオ視察に行く者も現れたりしながら。


1976年12月17日、FREEDOM STUDIOオープン。

それはFREEDOMという名称そのままに、従来のスタジオのスタイルから解放されたものでした。

バンド録音に最適化されたサイズ。
バラエティに富んだ反射吸音を得られる音響設計。
絵画クロスや石積み、多色の照明など、アトリエ的な雰囲気でまとめられた内装。

機材の中心はアンペックスの16trレコーダー・MM-1100とAPIの卓、2824。

そしてこの空間をワンデイでも、ウイークリーでも、マンスリーでも押さえられるシステムを採用したのです。


当時、日本のレコーディング・スタジオと言えばレコード会社所有のものがほとんどでした。

それはオケまで含めて1発録りできる飾り気のない大空間が多く、壁は吸音中心。
そこでは様々なジャンルのアーティストが、厳密なタイム・スケジュールの中で録音していました。

そのことを考えると、FREEDOM STUDIOがいかに新たな場所であったかがよく分かります。


そして時代は、この新しさを求めていたのです。

70年代に入って大きな潮流となりつつあったシンガー・ソングライター、自作自演のアーティストたち。
彼らの録音現場は標準的なバンド編成が多く、お互いに音を出しながら時間をかけて楽曲を固めていく形が増えつつあったからです。


エンジニア、技術、営業の努力に支えられたスタジオはまず、ゴダイゴとの間で化学反応を起こしました。

TVドラマ『西遊記』関連の制作では、スタッフは時にスタジオに寝泊まりしつつ、劇伴からリリース物までを並行してレコーディング。
そこから「ガンダーラ」と「モンキーマジック」、さらには「ビューティフル・ネーム」と社会現象的なヒットが続いたのです。


これが78年10月から翌年1月にかけての、スタジオ・オープンからちょうど2年目前後のこと。
レコーダーが16trから24trになったのもこの頃のことでした。


この場所の特性を活かし切ったアーティストの中にはオフコースもいました。

いい音楽を作るためには時間をかける、という東芝エキスプレス・レーベルの方針のもと、彼らは納得いくまで作品に向かいました。

持ち味であるコーラスのダビングでは多トラックのレコーダーが活躍しました。
パンチインなどではスタジオ・エンジニアの高い技術力も寄与しつつ。

そして79年末のシングル「さよなら」を契機に、80年の『We are』以降、アルバムを出すたびにNo.1を記録するようになったのです。


同様に、同レーベルの録音部長がFREEDOM STUDIOの音の良さを確認した上で自らレコーディングした、アリスの『Ⅵ』『Ⅶ』『Ⅷ』といったアルバムも連続してトップを獲るようになりました。

一方で、デビュー前のYMOの3人のレコーディングを目撃した、という話もあります。
スタジオが所属事務所から近かったということで、デビュー前の松田聖子がデモ録りをしに来たこともあったそうです。

徐々に徐々に、ジャンルを超えたハブのように音楽業界に浸透していったスタジオ。


そして81年4月、この場所で作られた寺尾聰のアルバム『Reflections』が発表となりました。

LPレコードとして、今日まで破られることのない売上枚数記録を持つことになる同作品。

オープン以来5年足らずで、FREEDOM STUDIOは空前のヒット・ファクトリーとなったのです。

第2章 進化と深化(2026.04.28 UP)

1982年。オープンから6年目のFREEDOMSTUDIOに、早くも大変革が訪れました。
まずスタジオ自体の全面改装。その最大の理由は低域のコントロールだったようです。
例えばキックのドッという量感がちゃんとセンターに定位して聴こえるか否か、といったような。
マルチトラック・レコーディングが一般化し、各楽器の分離が確保できるようになってきたゆえ、余計気になる部分だったのかもしれません。

そして海外のスタジオの事情を探ってみると、クリアな低音はすでに存在していることが判明しました。アメリカの、トム・ヒドレーというスタジオ設計者の存在と共に。
'60年代。彼が設計したスタジオの音の良さに感激したジミ・ヘンドリックスの口利きで、かのレコードプラント・スタジオを設計・運営することになったトム。さらに自らウエストレイク・オーディオと同スタジオを開設し、同所はMJの『スリラー』からジャスティン・ビバーまで、世界的ヒットを生み続ける場所となります。

FREEDOMSTUDIOのスタッフはアメリカに彼を尋ね、Aスタ、Bスタを改装してもらうことになりました。壁面をネットで覆い、その中に作られた空間に音響トラップを仕掛けるNon-EnvironmentRoomという発想に基づいて。

生涯に全世界で600以上のスタジオを手がけたトム。日本では唯一現存するのがFREEDOMSTUDIOの2つのスタジオです。無響室ほど無機的ではなく、しかし確実にスピーカーの音だけを聴けるコンソール・ルーム。大きさに比してほどよく低域がコントロールされたブース。それは今もここにあります。


スタジオの改装と共に導入されたのがSSLのコンソール、4000Eです。それまでFREEDOMSTUDIOにあったAPIもAutomatedProcessesIncという社名どおり、世界で初めてフェーダー・オートメーションを開発した会社のものでした。けれどもSSLはトータル・リコールという商標で知られるように、コンソール上の全操作を記録・再現できる卓として登場したのです。レコーダーとの連携したタイムコードも遅延がなく、その操作も卓の中央で可能となりました。

ミックス時は数人がかりでツマミを分担操作して、といった情景を過去のものにしたコンソール。これも関係者がイギリスまで出向き前年リリースのものを翌年には導入。日本では最初の導入例の1つとなりました。世界中のスタジオでSSLがあるか否かが問われるようになったのはその後のことです。

現在ではAスタに4056G-TR、Bスタ4056E、Cスタ4056Gが設置されています。


改めて考えると信じられないような精力的な動きですが、'82年という年にはもうひとつ大きなトピックがありました。それが『センター・レコーディング・スクール』の開校。なんと自前のエンジニア養成学校を作ったのでした。

ただし通常の専門学校とは違い、徹底して実習主体のカリキュラムで卒業時には即戦力になることが大前提でした。卒業生は翌年には講師として教えることが出来た、という逸話が物語るぐらいに。

その実習には当時最先端だったSSLの操作までが含まれ、これは大きなアドバンテージになっていたようです。多いときは1クラス10人で3クラスぐらいあり、卒業した彼らが確実に様々なスタジオに就職していったことから「石を投げるとセンター・レコーディング・スクールの卒業生に当たる」と言われたこともあったそうです。それは経営的にも大きな人脈として機能したようです。このスクールは以後、実に27年間にわたって継続しました。

録音環境と機材の時代を先取りしたブラッシュアップのみならず、レコーディング・スタジオが自らのスクールまでをも持ってしまう。第2章もまたFREEDOMの名に恥じないスタートを切っていったのでした。

第3章 外へ(2026.05.28 UP)

'80年代。ヒット作の連発を背景に、FREEDOM STUDIOは外部との繋がりが目立つようになっていきます。

お茶の間レベルでいうと、最高視聴率が40%を超えたこともあった歌番組『ザ・ベストテン』の中継。これがスタジオから何回となく行われたりもしました。当スタジオの愛用者であるアルフィーがドラム・ブースの中から登場する、といった趣向をこらしながら。

逆に同じくFREEDOM STUDIOを拠点にしていたオフコースが歌番組に出演する際、彼らの要望で監修役としてエンジニアが同行することもあったそうです。

この時代に出来始めたリゾート・スタジオの1つ、ミュージックイン山中湖には'85年よりエンジニアの派遣もスタートしました。「人はすぐ作れないので技術者を送ってくれないか」という要望に応える形で。FREEDOM STUDIOでベーシックを録って山中湖でダビングして、といった連携もあったようです。

スタジオと言えば'83年、新宿にリハ兼デモ録り用のスタジオ・フェイスのオープンがあり、'88年にはFREEDOM STUDIO地下2Fに再びトム・ヒドレーのデザインによるCスタが増設されました。さらに翌'89年にはあの青葉台スタジオがオープンします。奇しくもトムがデザインした既存のスタジオを受け継ぐ形で。 こうしてFREEDOM STUDIOが3箱、青葉台2箱、計5箱体制が確立したのでした。

そして'91年、スクラム・スタッフが設立されます。まずはエンジニアやアシスタントの派遣会社として。この職業はクライアントに気に入られて指名されなければいけない。でも中には技術はあるのにコミニケーション能力がないためになかなか認めていただけない場合もある。そのへんを明らかにした上で派遣しましょう、という趣旨で。

それはすでにオープンから15年を経ていたFREEDOMSUTUDIOの知見が形になったものでした。
例えばアシスタントのスキル。まだスタジオにPCが導入される以前、パンチイン/アウトはアシスタントの重要な仕事でした。しかも'80年代末に登場して業界のスタンダードになったSONYのPCM-3348は実に48トラック仕様。その中の特定のトラックの特定の部分を素早く確実にパンチイン/アウトできる、というのは欠くことの出来ない技術だったのです。

派遣する人と現場のマッチングも色々と考えられていたようです。
例えばユニバーサルのクラシックやポップスでも大編成のものが多かったキングの場合は、大掛かりな録音に長けた人材を。何回もテイクを重ねて少しづつ歌を完成させていくアイドルの場合は、そうした録音に慣れている人を、といった具合に。

少し余談になりますが踊りながら歌う、といった新たなパターンが出てきたこの時代。'96年から始まった「SMAP×SMAP」で、5人がメドレーで歌い踊る際の音源をFREEDOM STUDIOが曲を繋げて納品したこともあるそうです。

一方、スクラム・スタッフはエンジニアがいて、ディレクターがいて、スタジオとミュージシャンを押さえて、という音楽制作請負も開始していきます。
さらに2000年代に入るころにはいち早く中国と日本を股にかけたビジネスも展開。中には現地で人気のクレヨンしんちゃんの携帯待受画面を作る、といった仕事もあったとか。

こうして企業グループとなったFREEDOM STUDIOはマルチ・メディア、ミクスド・メディアの時代に切り込んでいったのでした。

最終章 再生(2026.06.30 UP)

奇跡はやはり、思わぬ所で生まれました。

'90年代と比べればミリオンの数は10分の1以下に。収益性の高かった CD の売り上げも5分の1に。さらにはコンピュータ・ベースのレコーディングの精度向上で、自宅での音楽制作も可能に。

21世紀がもたらしたそうした変化を受け、ピーク時には数百あったと言われるスタジオはディスカウント合戦のち3~4分の1まで減少したと言われています。

そして2016年10月31日、FREEDOM STUDIOも閉鎖が発表されました。けれどもみなさんには今、こうしてサイトをご覧になっていただいています。フル稼働中のレコーディング・スタジオとしてのサイトを。

閉鎖発表以降、一体なにがあったのか?

その答えは新社名にも表れています。一旦閉鎖されたスタジオが名前を変えて、というのはかつてよくありました。けれどもFREEDOM STUDIOの名を残しながら、さらにINFINITYという永続を願う言葉を加えた命名には特別な想いが見てとれます。

想いの主は現CEOの児玉洋子氏。

レコード会社で長くジャズやクラシックの制作にいた児玉氏はフリーになったある日「そろそろスタジオがあってもいいよねえ」という仕事仲間との会話の流れでFREEDOM STUDIOの閉鎖を知ったと言います。

FREEDOM――どんな所か?と試しに足を運んで気づきます。「ここは中学2年生の時、アルフィー(現:THEALFEE)がレコーディングしているというのでファン仲間と見に来た場所だ!」と。そして強い想いが湧き上がってきたそうです。「ここはぜったい無くしてはいけない」と。

長年の夢だったベルリン・フィルとの仕事も幾度となく重ね、音楽プロデューサーとしては満足してしまっていた。そうしたら向こうから「これをやりなさい」とスタジオ経営という使命がやってきた感覚だった、とも。

すでに取り壊しが決まり、跡地には住宅が建つ計画まで進んでいたFREEDOMを入札で取得。再生にむけた取り組みが開始されます。そこで役にたったのがレコード会社時代の経験だったそうです。

「音楽だけに真っ直ぐ向き合えるスタジオ。ディレクター時代から一番好きな場所だったんです。あの空間をいかにアーティストが最良の作品を生み出せる場にするか、というのは当時から心がけていたことでした」。ゆえに新生FREEDOMも、アーティストにとってもディレクターにとっても心地よい空間にすることから始めたといいます。

まず取り組んだのは人材。いいスタジオは、人がつくる。そんなディレクター時代の経験から、外部エンジニアをしっかり支えられるアシスタントの育成と、お客様一人ひとりに合わせたきめ細かな対応を一から築いていったとのこと。

後者については、おもてなしの考え方を学ぶため、『リッツ・カールトン超一流サービスの教科書』をもとに、おもてなしの考え方を共有するとともに、お客様への対応や日々の気づきを日報で共有する文化を築いていったといいます。
レコード会社時代、直属の上司だった大ジャズ・プロデューサーにして東芝EMI最後の会長・行方均氏。そのスタッフ・マネージメントの影響も大きかったそうです。

一方、スタジオの内装に関しては当初、児玉氏自らスタジオの中を歩きまわって気になるところを逐次改修。壁紙一つを選ぶにも、音楽をつくる空間にふさわしい心地よさやリズム感を求め、何種類ものサンプルを取り寄せては、自ら壁に当てながら納得がいくまで検討を重ねたのだとか。

そして、かつて来日した著名エンジニアが、その豊富な機材のストックに驚いたという数々の貴重な機材。しかし、その多くは十分なメンテナンスを必要とする状態。毎日のように修繕を繰り返し、ひとつひとつ本来のコンディションへと戻していきます。その作業だけで、およそ2年もの歳月を費やしたといいます。

そうやって10年あまり。「リニューアルしたての頃は明日のことすら心配だったんですけどね」と笑う児玉氏ですが、現在では3ヶ月先まで予約が埋まる状態が続いているとのことでした。

これまでお付き合いのなかった企業から評判を聞いてご利用いただいたり、外部エンジニアの方が新たな案件を持ち込んでくださることも増えていきました。「日本で一番コンディションのいいピアノだ」との評判を聞き、ピアノを目当てに予約されるケースもあるそうです。

遡れば戦後すぐ〝うたごえ運動〟の本拠地になった現在の場所。

「かつて、若い人たちが日本の復興を願って集まったように、ここは何かが生まれる場所。そういう不思議な力を感じるんです」と児玉氏。
「だから、これからもいいものが生まれる場所であり続けられると信じています。そのために、改善を重ねながら進んでいるんです。」

最後にレコーディングスタジオの未来についてたずねてみました。

すると「バンドは一緒に録る。劇伴は生音で録る。それだけでもスタジオはなくならないと思います」との答えが。そこにはどれだけ制作環境が変化しても、人が集まり、同じ空間で音を重ねることでしか生まれない音楽がある。その瞬間を最高の音で残すこと。それこそが、これからもレコーディングスタジオに求められる役割であるという強い思いにあふれていました。

またレコードのリバイバルを例に「FREEDOMが持つアナログ機材と、それを扱える人材がいること自体が、非常に高い希少価値を持つ時代が来ると思うんです」とも。

そして、レコーディングスタジオの未来を見据えながら、児玉氏は「INFINITY」という名にふさわしい一言を笑顔で語ってくれました。
「私たち、最後の一つまで生き残ろうね、っていつも言ってるんです(笑)。」

To be continued… in INFINITY